音楽はからだ、からだは音楽?
この三回目のコラム執筆になります。一回目、二回目共に楽器についてほぼ触れない内容でしたので、今回は少しそれらしいものを。と言っても楽器の製作については他の方にお願いするとして、素人ながらの演奏法と身体性についてなど思いつきを記しておきたいと思います。
初めに僕の趣味の話になるのですが、昔から格闘技や武術の様な事が好きでした。そういった関係で最近はボディワークと言われる身体操作などに興味を持っています。身体操作のセンシビリティを追求というのは、武術の本質や根元としては一般的なものだと思いますが、最近ではそういった古武術的なアプローチからの奏法の研究などもあるようです。
またそれらは奏法、武術の理解、其々の深度によって理解度は変わってくると思います。歴史的に弾かれることが断絶した音楽を(ちょっと回りくどい言い方ですが、要はバロックやルネッサンスものですね)、文献及び当時の音楽の作り(音楽的アーティキュレーションや、歌ものの伴奏時における歌詞の語彙による文節的つながり)などによって、真面目に研究している奏者の方もいらっしゃいます。その方たちの中には、当時の奏法や表現技法のために逆説的に当時の身体操法(と思われるもの)にたどり着き、独特の素晴らしい動きをしている方もいらっしゃいます。
あくまで僕の個人的見解ですが、それらは当時のバイオリン(だけではない楽器一般)奏法が当時の身体(操作)と密接に関わっていた証明にはならないでしょうか。
「現代の演奏家の技術の方が昔の人間より素晴らしい。その証拠に今は音大生でも当代随一と言われたパガニーニの曲とか弾けるじゃないか。」という理論は確かに一理あると思います。ただ当時は「ガット弦とトランジッション弓(大まかにバロック弓とモダン弓の中間の弓)」で弾いたパガニーニでした。現代の多くはモダン弓とモダンセッティングによるパガニーニ演奏です。
もちろん、だから現代はみんな弾けるんだ、などと言うつもりは毛頭ありません。左手の技術はあまり変わりませんしね(ネック、肩当、あごあてによって若干変わりますが…)。ただバロックの音楽表現をするにはバロックの楽器が適していて、バロックの楽器にはそれに見合った奏法が必要です。その奏法にはそれに即した身体操法が必須とされます。現代の音楽を奏する難しさ、古楽を奏する難しさの違いの1つに、奏法、ひいては身体操作の違いもあると思います。
と、言ったそばからなのですが、実は身体操作について広義においては、今も昔もそんなに変わらないと思います。それぞれ現代、古楽の音楽的に要求されるものの違い、使っている道具(楽器)の違いからどこに重点を置くかが変わってくるのです。きっと両方弾ける人は「身体表現としての引き出しが多い人」なのではないでしょうか。
もちろんそれを理解し行動させる「頭」を持っている人はそれもひとつの身体能力の高さだと思います。
現代は頭脳労働に重きをおく風潮にある時代ですが、頭もあくまで身体の一部です。唯脳主義に対する疑問など前々から言われていましたが、最近は身体感覚の復権がなされているかと思います。僕の周りだけかもしれませんが、感覚や身体性を重視する人が少しずつ増えている様に思います。
そういった新しいアプローチや考え方をする演奏家のこれからの活動が本当に楽しみです。僕もそういった変化してゆく音楽の世界の片隅で、仕事ができ自分の場所がある事に幸せを感じています。
帯にある様に正しく攻めのボディワーク。
呼吸法やリラックスによる個々の部位の独立は、演奏のみならず様々な身体パフォーマンスを上げるのでは?
僕の駄文なんかよりこれを読め第二弾。
佐々木中さんは新進気鋭の思想家。民主制度や大学のあり方について語りながら、根底には混迷する時代を生きる為の視線の方向性を示してくれるものがあります。この本[dou]は講演集ですが、原発事故後の講演などもあり、自分でも理解出来ない抱えた感情に「腑に落ちる」言葉を与えてくれた本です。
次回は12月20日更新予定です。