音を記憶するということ
私がバイオリン製作を勉強するためにクレモナに留学したのは、2001年の秋でした。
1993年 ウィーン・ニューイヤーコンサートの収録現場にて
それ以前は、NHKの録音エンジニアとして20年間勤務しました。在職中は、NHKホールやサントリーホールでのオーケストラ録音、そしてスタジオでの室内楽録音など、主にクラシック音楽番組の収録を担当していましたが、特に印象に残る仕事の一つとして、ウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートの衛星生放送などもありました。
録音エンジニアとして仕事をする中で、内外の音楽家の演奏を聴く機会も多く、また、良いヴァイオリンの音を目の前で聴ける機会も頻繁にありました。
そんな中、あるきっかけから、バイオリンの魅力に惹きつけられて楽器製作の道に入ったのですが、よく人から質問されるのは、「録音の仕事で鍛えられた耳は、バイオリン製作に役立っているのではないですか?」ということです。そう聞かれるたびに、「そうですね。」、と返答しながら、「でも、本当にそういうことはあるのだろうか?」と自問自答することもありました。
ミニカンナによる表板のアーチ成形
というのも、よく考えてみると、バイオリンの音作りに重要なアーチ成形や厚み出し作業の途中では、完成したバイオリンの音が聞こえるわけではありませんので、バイオリンの音を良く知っているかどうかは、直接的には関係ない気もするからです。では、NHK時代の経験がバイオリン製作の役に立っていないかといいますと、そうではなく、いろいろな局面で助けられていると感じることが多くあります。
1992年頃 スタジオでの音楽録音現場にて
楽器の録音をするとき、マイクの位置を数センチ動かしただけで聞こえてくる音は微妙に変化します。その音の違いを判断して、最適な位置にマイクをセットすることが、音楽録音をする際には非常に大切です。
音を聴きながら、場合によっては、マイクの位置を数段階も前の状態に戻すような判断を求められることもあるのですが、そのためには、音を正確に「記憶」していなければなりません。こうして位置を決めたマイクから出てくる音が、「商品」として全国に放送されるわけですから、責任も大きいのです。
そういう仕事を経験した中で身に付いた「音を記憶する能力」は、やはり、バイオリン製作にはとても役立っていると感じています。
たとえば、バイオリンを調整する時、主に駒や魂柱などを調整して最良の音を探すわけです。魂柱の位置を少し動かすと音が変化するのは確かなのですが、それが良い状態になったのかそうではないのか、時として判断に苦しむことがあります。
もちろん、音の価値判断は人それぞれで、「絶対的な良い音」というものは存在しないのかもしれませんが、少なくとも、「魂柱を移動する前後でどのように音が変化したのか?」を正確に把握することは、とても重要です。
魂柱をエフ字孔から挿入
表板の厚み出し工程
魂柱をコンマ数ミリ動かして、バイオリンの音の変化を聴きながら最適な位置を探していく作業は、録音の際にマイクの位置を決める過程と良く似ています。両者に共通する大切なことは、「音を客観的に聴いて記憶する」という事です。
さらに、魂柱などの最終調整段階だけではなくて、製作途中の厚み出しなどの作業においても、過去に製作した楽器の音を正確に記憶できていれば、次の作品をどう削っていくか、明確な指針を立てることができるのではないかと思います。
ですが、「音を記憶する能力」が、そのまま「良い楽器を製作できる能力」に直結するかどうかは別の問題だと思います。私が今回書きましたことは、良い楽器を製作する上での一つの要素に過ぎませんし、また、音を記憶する能力を磨く方法は、録音技術に限らず様々な方法があることは言うまでもありません。
ただ、録音エンジニアとしての経験から、音を記憶することの重要性を深く認識できたことは幸運でしたし、少なからず私の製作するバイオリンの音作りに役立っていることは事実ですので、ご参考になればと思い、書かせていただきました。
私自身、今後もさらに勉強を重ねて、より良い楽器を製作していきたいと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。
次回は1月5日更新予定です。