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光陰矢の如し あっという間の40年

第298回 岩井 孝夫 (2024.08.05)

picenengo村の農家の仕事部屋

 1992年、今から約30年前、私がイタリアでバイオリン修行を終えて日本に帰ってきた時、ちょうど日本では一般人のインターネット普及が始まろうとしている時でした。
とはいってもまだまだ少なく一人のバイオリン作りが日本に帰ってきて、そのことを知らしめるには従来方式の書店に置かれている音楽雑誌の宣伝広告を利用して自分の思いを発信するしかありませんでした。
今日ではインターネットで何でも自由に無料で自己発信できる時代になりました。2年前から私もスマホを購入しインスタグラム,facebookを始めました。

30年前は、製作した楽器を展示する場所は日本弦楽器製作者協会に入会して、東京千代田区九段で開催されている「弦楽器フェア」に出展するしかありませんでした。
製作した楽器は出展するも、すぐには売れないので、次の年からはバイオリン材料、製作道具、自主製作のVHS「バイオリン製作ビデオ大全集 90分×6巻」などの販売を始めました。

当時長い歴史のある日本弦楽器製作者協会の正会員で自分の製作した楽器以外のものを販売する職人は私が初めてでした。
ものを販売するのは法人の業者だけだったので、協会の総会では私は問題児となったらしく、話し合いの結果これからの時代は業者も職人もすべての人は同じまな板の上に立って、商業活動をするべきだとの結論になり、意外にも私の物販行為は認められました。

大阪高槻市で開校していた「バイオリン製作学校クレモナ」は10年間で閉校しました。
理由は卒業生の就職先がなくなってきたのが原因です。楽器業界自体が大きくなく大量の職人はいらないのが現実です。
自分を卒業生の立場におき替えると高い授業料を払い、技術を学び長い時間をかけて技術を習得しても仕事がなければ意味がないと思ったからです。
その時点で22人の卒業生がいたので、その卒業生の仲間とともに、バイオリン職人集団「ピアチェーレ」を作り私の工房で展示会などを始めました。
そのグループが少しずつ大きくなり15年ほど前に現在ある「関西弦楽器製作者協会」に発展していきました。

私の製作した楽器の販売も最初は大変でしたが、20年、30年と経っていくうちに少しずつ売れるようになりました。
40年前、イタリアで白木バイオリン1本2万円(当時のイタリアリラを日本円に換算すると)で売っていた頃と比べると、今は夢のような理想の形態となっています。
この原因を作ったのは一つの出来事から始まっています。
私のイタリアでの修業時代、マエストロ・ステファーノ・コニアに弟子入りしていた時のことです。私が親方にバイオリンの値上げを要求しました。すると親方は「駄目だ。もし高く売りたければ自分でミラノでもトリノでも行って自分で売ってこい。そうすれば、自分の好きな値段がつけられる」と言いました。それ以降私は製作した楽器を持ってミラノのコンセルバトリオ、ミラノ市立の音楽学校へ行商に行きました。

私が住んでいたpicenengo村の農家

 ある冬の朝6時ごろに起きて6時半のクレモナ発ミラノ行きの電車に乗ろうとしていました。クレモナの冬は日本よりも朝冷えが強く、その日地面は凍っていました。当時私はPICENENGOというクレモナ郊外の村の農場CASINA(カッシーナ)に住んでいたので、自転車でクレモナ駅まで10分かかりました。その日はバイオリンとビオラをダブルケースに入れて自転車でクレモナ駅に向かっていました。当時のケースはベニヤ板でできていたのでとても重く右手でハンドルを操作 し、左手でそのケースを握りしめて自転車ペダルを踏んでいました。

ある瞬間、ケースの端がペダルを踏んでいる左膝とぶつかり、バランスを崩し、自転車もろともあっという間に地面に倒れてしまいました。倒れるまでの零点数秒のあいだに私はバイオリンだけは守らなければいけないと思い、両手でケースを抱えました。そのおかげで楽器は大きなダメージを受けなかったのですが、私の右顔面上部と右肩が、地面にたたきつけられました。運良くそこは田舎道だったので、道路の端は草が生えていて血は出たものの骨折には至りませんでした。薄暗い早朝の湿った地面にうずくまり、肩についた泥を取り、頭には擦り傷を負ったのでハンカチで拭いている時、天から今まで以上に「自分で作った楽器は自分で売る」という思いが降り注いできました。

 

修業時代クレモナで乗っていた自転車

 何が起きてもへこたれない思いはそのことがきっかけになっていると思います。 私の人生で幸せをつかんだ記憶の一コマとも言えます。
あの落車から40年。今は庭に緑がいっぱいの車の雑音が聞こえてこない古民家の理想の仕事場で自作の良い音のするステレオ装置で、自分の好きな音楽を聴きながら仕事をしています。
良い環境の中で良いものは作れると思いそれを作り上げてきました。
しかし今のところこれで完璧だと満足のいく楽器は出来てなく、まだまだ作り続けるしか良い答えは出なさなそうです。
100本目には100本目の謎があり200本目には200本目の謎があります。 必死になって40年作り続けていると知らぬ間に売れる楽器が作れるようになっていました。

どうも私は楽器を作る運命のもとに生まれてきた者のようです。

枚方の古民家工房