オイルニスを作りながら思った、さまざまの感想について
前回(2022年1月)の記事において少し触れた話題でもあるのですが、自分は2023年から楽器用のオイルニスを本格的に自作するようになりました。
という風に書きますと「おっ、ストラディヴァリのニスについて何か書くのか」と期待される方がいるかもしれませんが、今回の記事はストラディヴァリ時代のニスの本命と考えられている松脂(ロジン)のオイルニスではなく、もう一つ古い時代から存在する『コーパル・オイルニスを作ってみた』というお話になります。
1.西暦1100年 ライン川の畔にて
西暦1100年頃、かつてのローマ帝国時代のガリア諸属州とゲルマニアの境界として南北に走るライン川近郊の修道院で一人の修道士がペンを走らせたその日、果たして自分が書いた工芸についての書が後に世界中の言語で翻訳され(極東の日本でも)読まれることになると本人は想像したでしょうか。
あらためてこの本を紹介しますと、西暦1100年頃(遅くとも1140年以前)に現在のドイツ・ラインラント=プファルツ州、ライン川近郊のベネディクト派修道院で工芸家として活動したとされる修道士テオフィルス≪Theophilus≫が書いた”De diversis artibus”(日本語訳:『さまざまの技能について』 森 洋 訳編 中央公論美術出版)は、それぞれに序文の入った全3部構成の工芸書で、
第1部が顔料・絵具・ワニス・接着剤・インクの製法と使い方、
第2部がガラスの加工・着色とステンドグラスの製造法、
第3部が各種金属の精錬と工具の製造・金の加工とオルガンの製造法について記述されていますが、
全体を一読して感じるのは著者が明らかに金属加工を専門とする技術者だったであろうということで、第1部の絵具と塗料に関する記述が簡素かつ簡潔であり絵の描き方について~の顔料で肌を塗れというような指示的な話である一方、道具の持ち方や動かし方まで懇切丁寧に指導してくれる第3部との文章量の差はそのまま本人の専門分野を想像させるにふさわしい内容の差であると思います。
2.ペンキとニスの作り方~900年変わらなかったもの~
さて本題のニスの作り方について書かれているのはこの本の第1部XXI(21節)「ニス[と呼ばれる]膠について」ですが、直前のXX(20節)
「扉を赤く塗ることについて及び亜麻仁油について」と対になっているこの2種の塗料分類が現代の日本のJIS(日本産業規格)にも「ペイント」(ペンキ)・「ワニス」(ヴァーニッシュ)の区別としてその名残が残っているというのは非常に感慨深いものがありますので、少し長くなりますがそれを含めて該当部分を引用してみます。(*本文中の注釈番号を省略しました)
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・XX 扉を赤く塗ることについて及び亜麻仁油について
しかして汝が扉を赤く塗ろうと欲した場合には、亜麻仁油をとれ。汝はそれをこのように配合せよ。亜麻の実を取り、それを火にかけた鍋で水を加えず乾かせ、それから乳鉢にとり、それを乳棒で最も微細な粉になるまで擂け。又再びそれを鍋に戻し、少量の水を注ぎ、かくて強く熱せよ。その後、それを新しい布で包み、通常オリーブや胡麻や芥子の油が絞られる圧搾機にかけられるが、これはさらに同様の方法で亜麻が絞られるようにである。この油で鉛丹もしくは朱を、水を加えずに石の上で磨れ。そして刷毛で、汝が赤く塗ろうと欲した扉または板の上に塗り、それを陽にあてて乾かせ。その上で汝はさらに塗り、再び乾かせ。
最後に又それにニスと呼ばれる膠を上塗りせよ。これは、この方法で調合される。
・XXI ニス[と呼ばれる]膠について
亜麻仁油を小さな新しい壺に入れ、フォルニスfornisと呼ばれる樹脂を極めて細かく磨って加えよ。それは最も澄明な乳香の外観をもつが、砕かれると、より明るい光沢を放つ。それを汝が炭火の上にかけたならば、沸騰しないように入念に、三分の一が蒸発するまで煮よ。そして焔に注意せよ。
何となれば、それは極度に危険であり、引火した場合には消すのが難しいからである。この膠で上塗りされたすべての絵は、光沢を放ち、美しく又全く長持ちがする。
-同じく別の製法で-
火に耐えて割れないような石を四つ組合わせて、その上に新しい壺をかけよ。そしてその中に、ロマン語でグラッサglassaと呼ばれる、上述の樹脂フォルニスを入れよ。
そしてその壺の口の上に、底に小さな穴をもった、より小さな小壺をかぶせよ。そしてこれらの壺の間に蒸気が全く洩れぬよう、そのまわりに粘土を塗れ。その上で、この樹脂がとけるまで、入念に火にかけよ。更に汝は、細くて柄にとりつけた鉄棒を持ち、それで上記の樹脂が、すっかり液化したことを感じとり得るまで掻き混ぜよ。
汝は、炭火にかけられた壺の傍に、中に熱い亜麻仁油の入った第三の壺を置くように。そして鉄棒を抜き出すと、糸の如きものを引く程に、樹脂が完全に液化したならば、それに熱い油を注ぎ、そして鉄棒で掻き混ぜよ。そして沸騰しないように、そのまま一緒には煮るな。そして時々鉄棒を抜き出して、少量を、その濃さを試すために、木又は石の上に塗れ。そして重さにおいて、油が二、樹脂が一の割合となるように留意せよ。もし汝が汝の好みに合うように、入念にそれを煮たならば、火から下ろし、
蓋をとり、冷却するままに放置せよ。
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以上引用の通り、現代のJIS規格で言うところのXX(20節)が顔料と油のみを練り混ぜた「ペイント」、XXI(21節)が樹脂と油を加熱溶融した「ワニス」にあたる物で、テオフィルスは続いてXXIV(24節)からXXVI(26節)に渡ってその使用方法を述べるのですが、「ペイント」を下塗りに使い、樹脂と油を加熱溶融した「ワニス」を上塗りに用いているという点には再び現代塗料との共通点を見出すことができるでしょう。
3.深夜1時 ベランダにて
*この段落の内容について、古来より現代まで文献学上相当な論争があり、未だ確たる結論が出ていない話であることをご了承ください。
上記引用文を見ていただければお分かりの通り、著者テオフィルスが説明する2種類の製造法は作業としてはかなり明瞭な部類で特別手に入れるのが難しいというものは無いというのもご理解いただけると思います。
具体的に必要とする物は
1.鍋
2.フォルニスfornisと呼ばれる樹脂
3.炭火(熱源)
4.金属製の棒
以上の4つで、2番目の製法のみ
何やら特殊な形状の鍋を追加していることがわかりますので、自分が行ったのは1番目の製法です。1.3.4.は現代的なもので代用するとして、2番目の『フォルニスfornisと呼ばれる樹脂』はどこで買えるのでしょうか?という話題からようやく冒頭の『コーパル・オイルニスを作ってみた』につながることになります。
ずばり核心に触れるとすれば、このフォルニスfornisという樹脂が具体的にどこで採取された何の樹脂なのかは現在でもわかっておらず、この書籍がラテン語から欧州各国語に翻訳されていく過程で常に論争になってきた話題でした。それでもなお自分がコーパル(*より正確には、当時欧州に存在しなかったマニラ・コーパル)を用いてでも、この作業を体験してみようと思った理由は、後の化学の発展により現代では「オイルニス」が油脂(トリグリセリド)と樹脂(カルボン酸)を触媒下に加熱し、油脂のグリセリンに化合している3つの脂肪酸のうちいくつかを
エステル交換反応によって樹脂酸に置き換えたものであることがわかっており、仮に樹脂の種類が変わった場合でも「鍋で加熱する」というこの作業内容自体は(レベルの差はともかく)過去から現代まで普遍的に行われ続けた作業であったと考えられるからです。
またこの樹脂について、ドイツの美術家マックス・デルナー(1870-1939)氏が著書Malmaterial und seine Verwendung im Bilde (日本語訳:『絵画技術体系』 美術出版社)において、
この中世のゲルマニアに生きた修道士の言う「フォルニスfornis」は、詰まるところ我々(ドイツ人)が現在作っている「フィルニスfirnis」と同じものであろう、という素朴ながら
実感のこもった話としてこれを琥珀またはコーパルのニスと説明したことに基づきます。付け加えて言えば、テオフィルスが2番目の製法で述べている「底に小さな穴を持った小壺」
という装置が、ドイツでは17-19世紀において琥珀Bernsteinニスを安全に作るための2重鍋である「シュトルハーフェンstollhafen」として実際に存在したということがデルナー氏の実感をさらに後押ししたのかもしれません。
デルナー氏が生きた時代、1900年代初頭にドイツで製造されていたコーパルニスの原材料はすでにバルト琥珀ではなく、アフリカ産の半化石コーパルや東南アジア産の硬質コーパルになっていました(*1)。
歴史的に塗料業においては産地が異なっても同じ性質を持つ材料は同名の樹脂として扱われていたことを鑑みるに、「昔と同じではない部分」と「共通する技術」をきちんと認識したうえで、かつて900年前にテオフィルスが体験したであろう素朴なオイルニスの製造を寒い夜のベランダで実地に体験できたのは自分にとって非常に有益な経験でした。
(コーパル樹脂を加熱し脱炭酸反応により油溶性に変化させるランニング処理の煙と、ニスを焚いている時の、人生で初めて嗅ぐあの酷い悪臭を皆さんにお伝え出来ないことが大変残念に思いますが)
4.ニスができても楽器は別腹
現在は完成したこの試作ニスを楽器に塗って乾燥させ「お客さんに提供して本当に大丈夫か」という確認をしている段階にあります。実際に、当協会所属の会員にもオイルニスを自作している方が複数おられ、塗装作業に当たっても親切にもいろいろな助言をいただきました。一般に作品が完成した後において、製作上の苦労の跡は一切見受けられないようになるのが工芸品の常とはいえ、同業の先輩方の助力を受け、体験した今回の作業の苦労と個人的な満足感についてこの場をお借りして些かの小文を記し、そして最後に著者である修道士テオフィルスの願いに応えたいと思います。
あいにく自分はキリスト教徒ではないのでどの様に神に祈ればよいかはわかりませんが、しかし900年前に工芸技術を書き残してくれたこの「同業の先輩」にも、あらためて感謝の念をささげたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
本文注記
(*1 半化石コーパルが琥珀に類似した分子構造・物性を持つため)
【参考文献一覧】
・テオフィルス『さまざまの技能について』 森 洋 訳編 中央公論美術出版
・マックス デルナー『絵画技術体系』 美術出版社
・Historische Lacke und Beizen Germanisches Nationalmuseum
・塗料技術発展の系統化調査 産業技術史資料情報センター
・北「獨逸」地方ノ琥珀 青山 長兵衞 地質学雑誌 1896年3巻32号
・コーパルワニス製造法 三山 喜三郎 工業化学雑誌 1909年12巻11号
・松脂より石油の製造に就て(追補)附コーパル油の新利用法 川合 誠治 工業化学雑誌 1923年26巻10号
・マニラコパル(II) 大橋 吉之助 色材協会誌 1942年16巻8号
・天然樹脂に就て 山下 正太郎 工業化学雑誌 1943年46巻4号
・油変性アルキド樹脂について 長倉 稔, 鵜飼 昭利 油化学 1971年20巻9号