虎玉杢との出会い
大阪の鳥飼に銘木団地があります。20年ほど前そこの業者の親子二人に出会いました。それから20年間2ヶ月に1回位取引がありました。それらの多くは楽器の材料ではなく私の趣味である日曜大工の材料でした。バイオリンを作ることを仕事にしている私にとってはいつもカエデと松が主な材料です。銘木団地では世界中の珍しい木を取り扱っています。
製材所ではそれらを寸法通りに切り取り、建材の材料として使っています。私はそれらの切れ端をせっせと買い集めました。それらは大木なので、切れ端と言っても私にとっては椅子などを作る十分な大きさがありました。その材木屋さんのおかげで世界中には色々な種類の材木があることを知りました。今はそれらは枚方の私の工房の床板のモザイクの材料になったり、椅子の材料になったりしています。
7~8年前に材木屋のおやじさんは亡くなり、その後も息子さんが小型トラックに乗って以前と同じように工房に材料を持ってきてくれました。ある日、いつもと違い大きなトラックに乗ってやってきたことがありました。「京都の工房の材木の引き上げです。ええのがあるのでどうですか」私はそんな大きな材木はいらないので断ろうと思いながら、トラックに近づきました。すると素晴らしい杢の入った材木が目に入りました。私が「こんな木、どこから持って来たんですか」と尋ねると、「たしか黒田と言ってはりました」それを聞いて私は京都で黒田という苗字を聞くと、すぐにひょっとしたら黒田辰秋の工房のことかと思いました。また私は黒田辰秋の亡きあと息子の黒田丈二さんが仕事を続けていることは知っていました。すぐに私の工房に戻り、黒田辰秋特集の本を手に取り、その本を材木屋さんに見せました。すると彼は本の写真を指差し「そうどす。こっからこの材木を引き上げてきました。2階から大きな板材を一人で降ろしたのでもうクタクタですわ。黒田はん(黒田丈二さん)は腰痛い言うてなんも手伝ってくれはらへんし大変どした」とさかんに重労働だったことを私に訴えていました。
私はそんなことより、まさか黒田辰秋の工房に眠っていた材料が目の前にあることのほうが信じられないことでした。なぜなら私は以前から彼の作品には素晴らしい個性を感じ回顧展や書籍で憧れの存在だったからです。
私はその山積みの中から数枚大きな材料を購入しました。翌日も引き取りがあると話していたので、ぜひまた寄ってくれるようにと話し、翌日にも素晴らしい材料があったので数枚購入しました。それらの中には黒田辰秋が半分仕事をして何かの理由で中断した作りかけの板や毛筆で材料に黒田と書いたものだったり宝物がいっぱいありました。
それから数日が経ち仕事をしていると、時々工房に来られる年配の方が、高槻の工房に入るなり「おやおや立派な材料がありますね」と話しかけられました。この方は木のことをよく知っている方なので、「この材料は何の木ですかね」と私が尋ねると「たいがいの木は見分けられるのですが、この木はなんだかわかりませんなぁ」と言った後で、「しかし組織を調べれば何の木がすぐにわかりますよ」とのことなので、私はすぐに木の断片を切り、検査を依頼しました。2週間後「岩井さん、これはヨーロッパのカエデです」とのことでした。私はバイオリンを作っているので、カエデのことはよく知っているつもりでしたが、こんなに杢の出るカエデがあることは写真で見る事はあっても現物を手に取ることはありませんでした。
20年間ずっとコッパ材ばかりを買い集めてきましたが、ついに大きな素晴らしい材料に出会いました。私は家具を作るために買った材料なので、美しい木なら何でもよかったのですがこともあろうにバイオリンの材料のカエデとは。37年バイオリン作りを続けていますが、この時のカエデ材との出会いは一生に数回しかない幸運だと感じました。
カエデの木がバイオリン作りの工房に来てくれたのだと思いました。