ハンマ商会にまつわるお話
またまた関連書籍からの引用です。「ハンマ商会にまつわるお話」…
ハンマ商会は1864年、フリードソン・ハンマによって設立され 三代、つまり子供のエミールおよび孫のウォルターと共にドイツ随一のヴァイオリン商として数多くのオールド楽器を取扱い世界中にその名声を博した。なかでもこの商会が出版した写真入り専門書は極めて役立ちあまりにも有名である。
そんなハンマさんにまつわるお話があるのでご紹介いたします。
1880年代の中頃、イタリアのボロニアで楽器買い付けをやっていたハンマ氏のところにある日の事 ハンブルクのヴァイオリン店 アウグスト・プファープ(1822~1904)が訪ねてきてこう言った「クレモナの名器を買いたがっている金払いの良い客をたくさん持っているんですが、なにしろハンブルクには品物がないのでご協力願えませんか」
ハンマはこの申し出を受け入れ約20個のクレモナの名器を丁寧に荷造りしてプファープに持たせてやった。そしておまけに客の接待費としてなにがしかのお金も貸してやった。プファープは楽器が売れたらすぐに楽器の代金と借りた金を送ることを約束しハンマのところを去っていった。しかしその後数ヶ月たっても楽器の代金も貸してやった金も送ってこなかったのてハンマはヴァイオリンが売れたかどうかと手紙を書いた。これに対しても何の返事もなく その後も何度か手紙を書いたが、まったくなしのつぶてであった。
そうこうするうちにハンマは病気になり数週間病院に入院しなければならなかった。そしてそのための費用もばかにならなかった。プファープの金が来ないので財政的にピンチに立たされたハンマはプファープの弟子に手紙を書いて一部始終を伝えプファープから何の返事もないが病気でもしているのかどうか知らせてくれと頼んだ。弟子からはすぐ返事が来た。
「プファープはあの時、よいヴァイオリンをたくさん持って元気にイタリアから帰って来ました。彼はそれらの楽器をロンドンへ売りに出し ある楽器商がやって来て全部現金で買って行きました。どうして私の師匠がすぐに貴方にお金を払わなかったのか訳がわかりません。あの楽器はみんな師匠がイタリアから買って来たものだと思っていました。」
この警告的な返事のせいか、ハンマの病気は急速に回復し、それからまもなく退院することができた。彼はすぐにミュンヘン行きの急行列車に乗り、そこからハンブルク行きの列車に乗り換えた。ハンブルクに着くとすぐ床屋へ行き、そこでカツラをかぶり髭を付けてもらって変装しプファープの店に乗り込んだ。そして「古いイタリアの名器を大量に書いたいのですが、いいものはありませんか?」とプファープに尋ねた。プファープは「3日間お待ちください。必ず満足のいくよい楽器をたくさん貴方にお見せします。」これを聞いたハンマは「いいでしょう。お待ちしましょう。私にはクレモナの一流の名器しか興味がないんですよ。本当に良いものなら即金で買いましょう」と答えた。
プファープはその1時間後にベルリン行きの列車に乗り翌晩おそく、ヴァイオリンをたくさん持ってハンブルクへ帰って来た。ハンマは約束どおり3日後にプファープの店に現れた。プファープは「どうです。あなたの欲しいものは全部ここにあります。」と言いながら楽器を机の上に並べた。
目のきくハンマは1つ1つ選り分け良いものから順に並べ直し こう言った。
「全部頂きましょう。ただし値段が適当ならばですがね。」客のすごくいい目に驚いたプファープは1台ずつ慎重に、しかしかなりいい値段をつけた。それを聞いたハンマは「いいでしょう。全部頂きましょう。」と言った。
これで大儲けができると思ったプファープはすっかり興奮して、仕事場に置いていたチェロを見せるのを忘れるほどであった。しかし、すぐに、それを思い出し仕事場からこのチェロを持って来た。ハンマはこのチェロをちょこっと見て「これも頂きましょう。全部でいくらになりますか」
プファープは紙と鉛筆を持ってきて勘定し始めた。するとハンマは突然コートの下から太い棒を取り出し机の上のヴァイオリン1つ1つに一撃を加え始めた。そしてそれが終わると今度はヴァイオリンを全部机の上から床に叩きつけ、さらに足で踏みつけて壊してしまった。これを見たプファープはただ仰天するばかりでどうする事もできず呆然と立っていた。ハンマは今度はポケットから金槌を取り出して隅に置いてあったチェロに一撃を加えた。それから彼はおもむろにカツラと髭をとり、「どうですプファープさん。私を忘れてはいないでしょうね。ボロニアのハンマです。これで貸し借りなしですな。」…怖いですね~怖いですね~。
以上(株)ショパン発行「楽器の辞典ヴァイオリン」、佐々木庸一さん著の「魔のヴァイオリン」からの抜粋でした。