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トリビュート

第139回 木村 哲也(2017.05.20)

師匠の楽器よりも音がいいねと、ごく最近言われた。こんなことを書くと、おいおい木村がまた自慢しだしたぞと思われかねないが、これはそういう話しではない。我が師と崇めるニール・アーツは去年の10月に突然この世を去ってしまったからだ。前回担当したコラムでは彼について書いたけれども、まさか二回目であるこのコラムを書くときにはもう彼がこの世にはいないだろうとは、夢にも思わなかった。

ニールが他界した去年の秋から、彼の作風に今まで以上に似せて作ってやろうとした楽器がある。自分なりのトリビュートのつもりだった。ところが、実際に出来上がったものはニールっぽいところはあっても、明らかに違っていた。このような試みをしたのは今回が初めてではないし、ニールに出会ってからは常に彼の作品が自分の理想であり、判断基準だった。ニールのような楽器を作ることは技術的には現在の自分にも可能なはず。彼のやり方も、作風も細かいところまで知っている。でもそうならない。なんでだろう?そんな歯がゆい思いを何度もしてきた。

ニール・アーツは自分にとってのヒーローだった。製作学校に在籍していたころは超不器用で、最終試験では落とされそうになったというエピソード。作品の質が高く、それでいて良心的な値段で販売していたこと。大量の仕事をこなしつつも、家族を何よりも大切にしていたこと。その全てがまだ10代だった自分の目には格好良く写った。いかにもイギリスというユーモアにも富んでいて、誰からも高い信頼を得ていた。そんな彼がまだまだ未熟だった自分と、別け隔てることなく、とてもオープンに接してくれたことは前回のコラムにも書いた。ニールはずっと自分には手の届かない凄い人物で、彼が生み出す楽器も同様だった。しかし、文字通り、彼が雲の上の存在になってしまったとき、皮肉にも彼の作品はそうではなくなった。冒頭の出来事があったからだ。

試し弾きをしてくれたのは、香港のオーケストラで演奏しているかたで、ニールの楽器を普段は使っている奏者だった。感想を聞いて、よほど引きつった顔になっていたのだろう。さすがに彼も察して、決して君の思い出と尊敬の念を壊したいわけではないけれど、と付け足してくれた。けれどもそれは、自分の作った楽器とニールの作った楽器、いくら自分のなかにセンチメンタルな価値観があっても、その2つは同じ土俵で比べられてしまうものだと気づいた瞬間だった。

ニールを基準に何事も比べてしまうのは良くないよと、これまでに幾度か言われたことがある。そのたびに、そんなことはしていないと、躍起になって否定してきた。でも、やっぱりそうだったのかもしれない。自分は今までニール・アーツの影を追ってきた、もしくは追おうとしていただけなのかもしれない。そう気づいたとき、そしてそれを認めざるをえなくなったそのとき、初めて自分のなかでニール・アーツが、師匠が死んだ。悲しいが、おそらくポジティブなことなのだろう。

いつも馬鹿な話をしてガハハと笑い、他の人に対しては、なんとかなるやろー、などと言っている自分でも人並みに悩みはあるし、辛い思いをすることなんてしょっちゅうだ。いくら楽観的だとはいえ、他人を励ますほうが自分を励ますよりも格段に易しい。そして、ニールとの突然の別れがあり、他にもいろいろな出来事があったためなのか、特に最近、自分は何のために楽器を作っているのだろうと、ふと考え込んでしまうことが多い。

そんなときは作業をしたくない。何もしたくない。

けれども、モヤモヤしていても、それでもあえて工房に入り、木の匂いを嗅ぎ、作業台の前に立ち、そして道具を手に取る。すると、それまでは頭のなかでうねうねとうごめいていた日常の悩みが、バイオリン製作家しか持たない、普通の人々にとってはまさにどうでもいいような悩みと入れ替わる。パフリングがどうのこうのとか、この渦巻きのラインがね、とかいうやつだ。そして、道具をふるい始めると、木が削れていくその独特なリズムのなかで、それら職人特有の悩みすらも身体のなかからスーッと抜けていく。そんなときなんだろう、職人が楽器に命を吹き込んでいるのは。

何のためにバイオリンを作っているのだろう。もちろん、より多くの人に良い楽器を届けたいとか、そこに喜んでくれるお客様がいるからとか、家族を養わなければとか、名前を残したいとか、もっともらしい理由はたくさん考えられる。そしてそのどれもが間違いではない。でも、そういったものが全て無くなったとき、どうするのか。バイオリンを作るのを止めるのか。きっと自分は止めないだろう。作り続けるのだろう。

正直に自分に向き合い内面を見つめたとき、そこにあるのは、ただこれを作りたいという原始的な欲求だけだ。身勝手なもんだ。でも、これが自分の芯にないと、そしてそれを肯定しないと、バイオリン作りなんてとてもじゃないけれど、やってられないはずだ。ロマン溢れる職業だと周りの人々には思われている。

それを否定はしない。確かにそうなんだろう。ただ、そのぶん、夢が大きくなりがちなぶん、それが達成される前に志が折れてしまう確率も高い。理想がただの幻で、自分の一方的な思い込みで、それに気づかず知らない間に誰かを傷つけているなんていうこともある。

そんな、ただ作りたいだけという、身勝手な欲求によって生み出されたバイオリンという名の物体には、それでも、材料となった木の魂、そしてそれをもとにして製作した職人の魂がこもっている。しかし、これだけでは誰が何と言おうと、バイオリンはただの綺麗な箱だ。何かのきっかけで、この箱が誰かの手にわたり、愛でられ、最後に演奏者の魂が加わる。そのとき、それまでそこに存在していなかった音の粒が生まれ、飛び出し、ときには何かに跳ね返り、または吸収され、消えていく。そのいくつかが人の耳に届き、そこで初めて、『ただの箱』は人の心を歌い、そして人の心に触れる『バイオリン』という楽器になる。
そしてそれは、その魂をこめた人々がこの世を去っても、残っていく。

素晴らしいじゃないか。

RIP Neil Értz (1966-2016)