楽器のデザインとサイズの話し
ヴァイオリンに限らず楽器は音楽を奏でる器として何らかの必然性をその体内に内包している。
最近私は日本古来の笛である篠笛や真笛を趣味として製作して楽しんでいる。その笛の中にヴァイオリンのサイズが隠れていると言ったらどう思われるだろうか。
自作の唄用七孔真笛六本調子(B♭管)
厳密に言うと、唄に合わせるように西洋音階を取り入れた唄用篠笛というものだが、その笛の内径を14mmほどにすると息を吹き込む唄口付近の懐から開口端までを355mmとして第4オクターブのAを出すことが可能だ。これは6本調子B♭管の製作において最も管を短くする限界の長さとなる。内径が14mmであることによって人間の手で1オクターブを塞ぎきることができるサイズへ納めることが可能となっている。
Aで調弦するヴァイオリンの胴長が355mmでありボタン部分の高さおよそ14mmであることは興味深い。笛の指孔同士の距離であるとかを含めるとヴァイオリンのサイズとの共通点をさらに発見できる。
このことから、ヴァイオリンも音程に関わるサイズがデザインに反映されているのではないかと考える。
ただ、注意点がある。
笛は本体が発音に直接的にかかわるため、デザインはすなわち音響的特徴と一致する。しかし、ヴァイオリンを始め多くのノンフレット弦楽器は音響性能が本体のデザインに直結しているとは限らない。音が出るためには弦の長さや張力が調整されればいかなる音も発音可能であるため、胴のデザインは比較的自由なのである。その中で、笛とヴァイオリンの間に共通のサイズが現れるということは、つまり、ヴァイオリンの側が物理的な音響性能や適した律を象徴的に表現する形で胴のデザインをしているのではないか、ということが言えるということを踏まえておく必要がある。
中世ヨーロッパでは基準となるAの音程が数Hz低かったといわれている。それはどのように確認できるのか。弦楽器では弦が切れてしまえば確認できない。笛は息圧や息角により音程が変化してしまう。実際は中世からある教会のパイプオルガンのAと比較するそうである。また、各地方によって音程が違うことも面白い。
弦楽器としては単独で楽器としての情報を伝えるために、基準とする音を本体のデザインに記す以外に方法はないと思われる。しかし、ラベルに442Hzと書くことはナンセンスだ。Hzという単位の失われた未来に発見されたときに対応できない。ラベルは日焼けして真っ黒になって読めなくもなる。
正五角形により確認されるデザイン内の黄金比
そこで、やはり基本的な幾何学的・数学的な真理をデザインに反映させたであろうことは想像に難くない。
しかし、具体的、技術的デザイン論はいまだ失われたままであり、確証のない仮説の域を出るものはない。今回はここまでの話として、遠い将来か、近い将来か、さらなる強力な仮説の登場を、私のコラムをお読みいただいた皆様とともに楽しみに待ちたいと思う。
知的生命体である人間だからこそ製作可能であったヴァイオリンの普遍性は、知的である生命の抱える矛盾を静かに美しく奏で続けているのだろう。まるで、ヨーロッパのキリスト教が言葉の中に神を見出し、ゆえにヨハネが最後の審判の訪れを確信していたように。12音階純正律が根本的な不可能性のなかで美のバランスを危うく紡ぐように。伝統的メソッドと厳格な楽譜の中から音楽が飛躍して唐突に楽しく現れる不思議のように。
ヴァイオリンは動的に生きた矛盾を見出す者だけに生々しく問いかけているのであろう。
黄金比、超越数の抱える進数と計算法の問題 宗教的図像生命の木の新解釈等の象徴的表現
私の取りとめのない文章に最後までお目通しいただき感謝します。さらに以下を一つ付け加えさせてください。
全ては、偶然でしょうか?必然でしょうか?That is The question ! なのです。
ヴァイオリンは職人の研ぎ澄まされたセンスが絶妙なバランスを意に介さずに生み出したものなのでしょうか?親方と貴族が社交会で当時の最先端技術を盛り込んで作ったモニュメントだったのでしょうか?極端ではなく、程よくどちらもある程度偶然で、ある程度必然なのでしょうか?
完全な均衡では世界が動かないため、創造主である神は最初の一撃を加えたととある哲学者は言いました。それはピースをたった一つ外すだけで均衡を失い宇宙は流動し始める、というものでした。
今、この時代。程よく、程度の問題でなんとなく安定する世界に、そのままの姿を映すヴァイオリンが美しくそのものを表現しているように、音楽も知識も人々も今まさに輝いて、ただ在ることが素晴らしいと言える時代であると、きっとそのような答えまで確かに求められるなら、そのように得られる時代なので在りましょう。
次回は12月20日更新予定です。