音が見える瞬間
楽器作りをしていると、初めて音が出る時が必ずある。いつもそれは緊張して興奮する時。
最後のニスが乾き、糸巻きを差し込み、魂柱を立て、駒を作り終え、新しい弦を張り、調弦した後に初めて弓を持つ手に伝わる楽器の反応と出音に、楽器として形になった達成感と共に前作からの僅かな変更点の結果や、その素材に対して判断した“狙った音“になっているかと耳を澄ます。
注文製作の場合は依頼主の要望も確認事項に含まれるが、諸々チェックしながら音を出してみた後、弦が安定するまでしばらく置く。張ったばかりの弦は初期伸長が安定しないとその弦本来の性能を発揮できないからで、しばらく置いて様子を見る。そして再び鳴らしてみて調整を始める。
そんな出来上がりから、ひと月ほどの楽器をある方の演奏旅行にお使いいただいたことがある。あれはもう10年ほど前の冬のフィレンツェ。
私はその頃、まだクレモナに住んでおり、所々で通訳も兼務しながらツアーへ同行させていただいた。
楽器使用のオファーを頂いた時は、もちろんうれしさもあるが、同時にプレッシャーもある。プロのヴァイオリニストが演奏で使用するにあたり、普段お使いのスーパークラスの楽器には及ばないまでも、ある水準以上の音質が出せなくてはならない。という意識だったと思う。
後ほどして、しかしこの機会は音への意識を更新する大切なポイントの一つだったとハッキリ記憶している。
このツアー中にフィレンツェ・ヴェッキオ宮の赤の間で祝福のメロディーを、サンタンブロージョ教会で東日本大震災チャリティーコンサートで8曲を、そして投宿していたホテルのサロンにあるピアノを借りての練習や他の会場でも、様々な環境で出来たばかりの楽器の音をじっくり聞いて考察するとても得難い経験をさせていただいた。
大切になったポイントとは、音がどのように飛んでいくかがはっきり見えたということ。
もう少し丁寧な言い方をすると、音がどのように空間を伝わっていくか明確に判る瞬間があった。と言えるだろうか。教会の中でフレスコ画と祭壇を背に、天に向かって螺旋を描き立ち昇ってゆく様が目に見えるように認識できた。イラストか何かで目にした、音楽が流れるシーンを五線が音符とともに曲線を描いていくような描写さながらであった。
この時から私の音に対する評価項目がいくつか増えた事は言うまでもない。
感動と、どんな要因が揃えばあんなことが起きるんだ?というショックとハテナが交錯するが、奏者の寄与する部分がとても大きい事を解かってもいるから素直に感動が大きかった。
自分の作った楽器からそんな現象が体験できるとは想像もしていなかったので、強く印象に残った、音が見える瞬間だった。
<滞在先の宿の塔から。心持を表すかのような凛として澄んだ空気>
それは、ストラディヴァリウスでも経験している。
ひとつは、やはり教会の様な高い天井の空間で大理石の壁でしつらえられた空間だった。このような環境で並の“良く鳴る楽器“を鳴らすと残響が多すぎて音像がボケてしまうのが通常だが、この個体がとても良い状態にあったのか、奏者の力なのかは解からないが、おそらくそのどちらも必要であろう。とにかくフレーズの一音一音の輪郭がくっきりとても綺麗な上、天井に当たった倍音がきらりきらりと降ってくる。
何故そうなる?というところは感覚でしか追い込んでいけていないが、天井の高い所にまで音が届くようになったと、今年の大阪の展示会での試し弾きイベントで確認できたので密かに小躍りしていた。あそこは私にとっていつも実験場である。
もう一例もストラドで、今度は音の壁。
これは至近距離でストラド&トルテ(弓)でフルパワー!というとてつもない条件。
大音量で耳がキーーーンっとなるかと思えばさにあらず。音の壁が押し寄せる。耳より先に目に見えるかのごとく壁が来る。音圧に打ちのめされる様な事はなく、耳が、脳が拒絶しない不思議がある。少しづつ寄せて行けている実感はこれまでの積み重ねたところから感じられている。
ストラドを通しての経験はそう頻繁にあったわけでもなく、いろいろな機会に違う個体のストラドの音を意識しながら聴いているが、機会に恵まれないと体験はできない。
これらの経験は意識せずに視覚で捉えているかのごとく認識できた場合だったが、その逆に意識して見えているかのごとくに感覚を研ぎ澄ませて臨んだこともある。
2階席が1階席の中ほどまでせり出しているホールで、奏者がマイクを使っての拡声も併用するとのことで、一階席奥の方へスピーカーで飛ばしたい方向の音量と、2階席へは容易に飛んでいく生音とスピーカーからの音量バランスを図り音響室へ指示を送ることは、見えているかのごとく感じとらねばならない作業であった。
ちなみにこの時は一曲のみの演奏で、楽屋入りの際に「ちょっと調子がいまいちなので楽器見といて」と委ねられた楽器はストラド。レコーディングを当日明け方まで行っていた楽器で数時間後の後のステージに向けてできる事は少ない。まずは“イマイチ”の原因を見つけなければならないので感覚を研ぎ澄ます。
弓で鳴らしてみたところでマエストロと同じ事ができるわけではないので、指で弾いた時の発音特性に集中する。各弦の発音速度に差が出ているのでこれが原因と特定・修正し、無事役目をおえることができた。視覚、聴覚、触覚をフル動員しなければならなかったので短時間であったにも関わらず非常に疲れを覚えた機会だったが、最小限の事で最大限できる事を模索しなければならない事を学べた大切な機会だったと後になれば思える。
さて、これまで音が見える瞬間は弦楽器が、特に連続して発音をコントロール下に置いている楽器という特徴を持っているからこそ現れやすいものかと思っていたが、あるワークショップ風景とその先生の演奏からピアノでもそれはあるのだと驚いたことがある。
その先生のピアノの音色は虹色に透明で美しく、シャボン玉のように部屋全体に飛んでくるのだが、これが不思議と割れない。弾力があり部屋中に跳ねまわるが煩さはなく心地よい。打鍵の瞬間しか弦に影響を与える操作が行われていないにも関わらず、こんなふうに音が出せるんだ!と擦弦楽器限定説は無くなった。
ヴァイオリンでもピアノでも、それができる演奏家の演奏を経験できた事がとても幸運に思える。
そして、それができる楽器を拵えられなければだめじゃないかとも奮起できる。ひとつの気付きに挑戦すると、またしばらくしていると違うものが見えたり聞こえたりしてくる。だからこの仕事は面白い。
あなたは音が見えたことがありますか?