ヴァイオリン製作B.C.時代の街、フュッセンを訪ねる
弦楽器の仕事をしているとヴァイオリンの歴史について、ヴァイオリンはいつ、どこで生まれた?などと尋ねられることがあります。
いつ、ヴァイオリンが現れたのか?という質問に対しては、いろいろ意見の分かれるところですが、現代のヴァイオリンに通じる構造や工芸的デザインを備えたものの起源(狭義の起源というべきか)というとクレモナのアンドレア・アマティ(ca.1505-1577)と言っても過言ではないのですが、「4弦五度調弦の弓奏弦楽器」という括りになるとそれよりもずっと前に存在していて、いわゆるフィドルやviola da braccio(brazzo)とかviola d’arcoと音楽書に記されている弦楽器を含めると1300年代(あるいはそれ以前?)にまで遡るようですが、絵画に描かれているヨーロッパ起源でないはずの弓奏楽器というところまで広げると11世紀くらいから存在していたようです。
では、弦楽器作りの起源はというとどうなるでしょうか?
通説では上記したような弦楽器が現れた頃は演奏家(吟遊詩人というべきか)自身が自分のために楽器を製作していたようですが、やがて宮廷や教会、貴族の間で楽器が演奏されるようになると専門的に楽器を作る仕事、つまり楽器製作業が出てきたということのようです。弦楽器についてはリュートやチェトラなどが愛好されるようになる1400年代始めの頃のようです。
そんな流れを経てクレモナでヴァイオリン製作が始まる以前、弦楽器製作の中心だったのは流行の音楽が発生したイタリアではなく今のドイツの南端の街、フュッセンでした。2018年5月末、南チロルに材木を調達に行くのにあわせてフュッセンに立ち寄って市立博物館を訪ねました。
フュッセンはローマ街道の一つであるヴェネツィアとアウグスブルクをつなぐ「ヴィア・クラウディア・アウグスタ」の途上、南ドイツのバイエルンとオーストリアのチロル州の国境にありドナウ川に注ぐレヒ川の水運を利用した物流の要衝になります。
フュッセン近郊(アルゴイ地方)では古くは1300年代の終わり頃から弦楽器職人が現れ、1461年には“リュート作りのBerchtold(ベルトルド)”という名の人物が知られています。まだ、新大陸が発見される以前ですね。
当時は弦楽器といえば撥弦楽器のリュートが大流行の時代だったのでフュッセンでもリュート作りがメインでしたが、弓奏弦楽器も作られていたようです。有名なフュッセン出身の製作家カスパー・ティッフェンブルガー(1514−ca.1570)の1562年の肖像にはリュート類の他にヴァイオリンやヴィオールが一緒に描かれています。
ティフェンブルガー一族の祖先はレヒ川下流のティッフェンブルクの町からフュッセンに移って弦楽器製作を生業にしたようです。組合ができた年の肖像画という点で現地での彼の存在感を想像できます。親方の中の親方!
この街でなぜ楽器作りが盛んになったかというと、弦楽器製作に必要な樹、スプルース、メープル、そしてイチイがたくさん生育していたからのようです。
イチイはリュートのリブ(甲羅)に用いられていた樹ですが、それ以上に武器としての「弓」の材料になる樹でした。このイチイの樹は武器材としてはるか遠くイングランドまで流通していたようです。イチイの白黒のストライプは樹皮の近くの端っこの方の材なのでおそらく、樹のイイトコロは高く売れる軍需用に、残ったところは加工して高付加価値で売れる楽器にという使い方だったのではないかと思います。
当時は乱伐されて現地のイチイはほとんど切られてしまったようです。市立博物館(かつての修道院)に隣接するお城の中庭に植えてありました。敵が攻めてきたら弓にするのでしょう!
このフュッセンで製造された弦楽器はヨーロッパの各地に流通していきました。興味深いことにここから輸出されたものは完成された楽器だけでなく、糸巻きなどのパーツや楽器の一部、例えばローズの彫られたリュートの表板、という部品も卸売りしていたようです。しかもこれらは街道を南に下ってヴェネツィアやパドヴァの有名弦楽器工房に送られていたりもしていたようです!フュッセンのリュートメーカーは楽器製作をイタリアまで習いに行き技術を持ち帰ってこの地で楽器製作を発展させていったようです(その後の時代、ミッテンヴァルト出身のマティアス・クロッツも同じストーリーでミッテンヴァルトでの楽器製作産業を立ち上げたという点も興味深い)。
このような楽器製造業のシステムが500年以上前に存在していたとは、びっくりポンです(詳しくはThe Strad誌の記事によく書かれています)。
それほど弦楽器の製造が盛んだったので1562年には過当競争を抑えるべく組合(ツンフト)ができました。ヨーロッパで最初の弦楽器製造業の組合で、フュッセンでできた製品はすべて組合を通して流通し、工房を経営する「親方Master」が「弟子」、「職人」を抱える形でいわゆる徒弟制度の職業システムができていったのです。そんなフュッセンの街は1600年には人口2100人ほどの街に13軒、周辺地域も含めると18軒の弦楽器工房があり、人口の16人に一人が弦楽器産業に携わっていたそうです。
そんな環境でしたから、能力があって野心を持った職人はこのような組合システムの中にいることを良しとせず、自分の能力を生かしてより稼げるヴェネツィアやウィーン、プラハなどの大都市に出て行きました。その名を挙げると、ヨハン・ゲオルグ・ティール(ca.1710-ca.1781,>ウィーン),フランツ・ガイゼンホッフ(1753-1821、>ウィーン)、パウル・アレッツィー(1684-1735、>ミュンヘン)、ヨハン・ウルリッヒ・エベルレ(1699-1768、フィルス>プラハ)などなどです。
町の“パンの市場”にあるティッフェンブルカーの像。広場にはF.ガイゼンホッフ他が作業していたとされる建物があってここは今は飲食店になっている。妻と夕食して想像力を膨らませる。
アマティ、グァルネリ、ストラディヴァリなどイタリアン・クレモナ・オールドのヴァイオリンが珍重される現在、ヴァイオリンA.D.時代(Amati Descendantsというべきか)を生きる我々はよく研究され認識されている部分のことについて自分でも理解していたつもりですが、現地を訪ねてみてますます弦楽器製作の歴史が面白くなってきました。
しかしながら、このようなフュッセンの歴史を探ってみて思いました。
もしかしたら、クレモナにもフュッセンで製作された楽器やパーツが来ていたのでは・・・?
それを示す資料はまだ見つかっていないようです。